先日、寺岡と呑んだ帰りにバスを降りてぶらぶら歩いていると、不意に先刻自分が何気なく口にした「浮気」という言葉が頭脳をよぎった。今までそう言うことは思いもしなかった。しかし大いに有りうることだ。自分は朝、七時前に家を出て、帰りは十時、十一時だ。家にいる時間はほとんどない。この間のゴールデン・ウィークだって二日休んだだけだ。それに出張もあった。女が昼間、暇をもてあましても不思議はない。浩三は久子の過去には一切触れなかった。それは女の過去に何があろうとも、すべてを許すつもりだったからだ。あの器量だ、あの年まで何もないはずがない。これは糾す必要があると思った。
翌朝浩三はいつものように家を出た。もう外は明るい。隣の奥さんがハイツ内の敷地に入ってくるのが見えた。今日はゴミの収集車が来る日だったとことを思い出した。奥さんは向こうから「お早うございます」と、にこやかに微笑みながら近づいてきた。年は久子と同じくらいだろう。小柄で華奢な感じで、髪をボニーテールにしている。南国風な顔立ちも悪くはないが、どことなく下町っぽい感じがした。
「どうも、この間は結構なものを頂きまして有り難うございました」
浩三は出張から帰った際、長崎土産にカステラを持って行かせた。
「どうもその節は、お世話をお掛けしました」
「お世話だなんて、しっかりした奥様ですもの」
浩三はちょっと鎌を掛けてみる気になった。
「別に変わったことはなかったですか?知り合いのものが来るとか言っていましたが」
「いえ、別に。ああそう言えば、土曜日でしたかしら、お従兄さんでしたか、八時頃に帰られましたけど、久子さんが表までお見送りになって・・」と言うと、奥さんは少し不思議そうな顔をした。浩三は的を射たような気がした。それと共に妙な高ぶりが来て、心臓がどきどきしてきた。久子に自分の知らない従兄がいてもおかしくない。しかし幾ら会話がないと言っても話に出るはずだ。後ろめたいことがなければむしろ言うはずだ。これで動かぬ証拠をつかんだような気がした。そうして一縷の望みが絶たれたような、堪らないほどの失望感と、淋しい気持ちが押し寄せてきた。
周囲のものは全く目に入らなかった。機械的にバスに乗り、電車に乗った浩三はそのまま大阪駅まで行った。そして駅のコンコースから「今日は風邪で休みたい」と会社に電話した。入社して初めての欠勤だった。そうして駅ビルの2階にある喫茶店に入った。
店内は出勤前に朝食を取る客で混んでいた。アメリカンを注文して、煙草に火を点けたが、さてこれからどうしようかと思った。気持ちを整理するために休んだのだが、何故か今はそのことに触れたくない気持ちだった。今日が金曜日だと思い出した。三連休か。この三日間、久子に対してどう接して良いか分からなかった。相手はどんな奴だろう?結婚後に知り合ったとは考えにくい。まだほんの三ヶ月だ。女がそれほど尻が軽いとは思えないし、また思いたくもなかった。やはり結婚前からの男に違いない。隣の奥さんにもっと年格好などを訊いておけば好かった。ひょっとするとその時だけでなく、連休、いやずっと前から来ていたのかもしれない。
別に相手の男をどうこうしようという気はなかった。憎む気も起こらなかった。ただどこの誰で、どういう人間か知りたいと思った。自分は嫉妬しているのだろうか?愛と嫉妬は別物である。嫉妬はまず自分がないがしろにされたという怒りである。自分以上に大切にされる者の存在により自己の自尊心が傷つけられた恨みである。そしてまた、自分の所有物が侵害された怒りと、それを失うのではないかという不安から来る恐れである。こういったものは確かにあるだろう。だが怒りや恨みは自分の気持ち次第である。ただ久子が自分から永久に離れた存在になるかも知れないという不安が今の自分を動転させているのだ。
本当に愛しているなら、その者の好きなようにさせてやるのが好いのかも知れない。しかしそれは例えば、父娘のように、いったん家を去ろうが永遠にその関係が保証されている場合のことだ。それにより愛する者と一切無縁になるなら話は別だ。愛することを示す場がなければ、その愛は絵に描いた餅に過ぎない。
「君が幸せになるなら、僕は構わない」と寛大な気持ちを示すのは、その愛はその程度の偽善的なものだと言ってるようなものだ。
目の前にコーヒーがあった。持ってきたのは見ていたが、ウェイターの顔も思い出せなかった。冷めたコーヒーを一口啜った。
初恋の頃を思い出した。中学二年の時、友人と二人で市内のデパートに行ったことがあった。そのデパートには、当時流行のジューク・ボックスが置いてあった。友人と聴いていると、少し先を歩いているMを見かけた。Mは一年生の時の同級生だった。小柄で可愛い感じで、当時人気のあった、吉永小百合や本間千代子に似た顔立ちだった。級友たちは集まると、Mの話をしたが、浩三はボール蹴りの方が面白かった。ただドッジボールを蹴り上げて取り合うだけの遊びだが、足に自信の有った浩三は、上級生を出し抜いてボールを奪った時の快感に浸った。追いかけたボールが、校舎の前でゴム跳びをしているMの所へ転がって行ったことがあった。Mはボールを拾うと、「はいっ」と言って、少し唇を開き加減でボールを差しだし、浩三の目をじっと見た。
今Mは友達と談笑しながら10メートルほど先を通り過ぎようとしていた。浩三に気づいたかどうかは分からない。しかしMは、浩三に、というより浩三の背後の方に向かって笑みを投げかけていた。その時の唇の両端をキュッと上げて笑ったMの表情に、一瞬に魅きつけられた。今まで何度か見た覚えのある表情が、まるでその回数がリミットに達したかのように、今、一度に浩三の心を占領した。浩三はMの行った方へ行きたかった。友人は同じ曲を何度もリクエストして、その場を離れようとはしなかった。ジューク・ボックスでは少し鼻に掛かった声で、伊東ゆかりが「恋の売り込み」を歌っていた。
それ以後、Mのことが頭脳から離れなくなった。校庭で、校舎の階段で、廊下でばったり会うと胸を躍らせた。そして進学も決まり、卒業式まで登校しなくて良いという最後の授業の日、浩三は自転車置き場から自転車を出して帰ろうとしていた。三月も半ばだというのに、その日は朝から薄ら寒く冷え冷えとしていた。向かいに在る水飲み場に三、四人の女生徒のはしゃいだ声が聞こえてきた。女性にしか出せない色気を感じさせる、少し鼻にかかったMの声が混じっていた。彼女の声を聞くのもこれが最後だと思った。
浩三は自転車をのろのろ押して校門を出た。傘を広げると、自転車に跨った。霙混じりの雨が降っていた。雪解け水のような薄汚れた細かい粒が、次から次と灰色の空から落ちてきた。それはハンドルを握る浩三の手をしたたかに打った。その時の無力感、不甲斐なさ、悲しみと同じものを今また感じていた。