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 小川は浩三を駅前の繁華街にある酒房に連れて行った。店内は勤めを終えた客で賑わっていた。知った顔は見当たらないが、この辺りの客は事業部は違っても、ほとんどが同じ会社の社員だった。明日からの連休が一層開放感を高めていた。飛び交う声と、焼き物の臭いが店内に充満し、その煙が煙草の煙と一緒になって靄をつくっていた。
 二人は奥の座敷に席を見つけた。紺の法被姿の青年が、注文書を挟んだホルダーを手に二人の後を追うようにしてやって来ると、テーブルの傍らに両膝を着いた。小川はあぐらを組むと、煙草をくわえたまま
「取り敢えずビールと、二つ、三つ適当に見繕って持ってきてくれ」と言った。
 浩三はライターを点け、小川の口許に持って行った。小川は青年が置いていった水を一気に飲み干し、顔に円を描くようにお絞りで二、三回拭った。
「こういう話は返ってこういうところの方が好いんだ。他人の話なんか聞いている奴なんかいやしないから」
 ビールが来ると、浩三が手を出す前に小川が取って「さあ、行け」と言って、浩三のコップに注いだ。そうして浩三の注ぐのを待たずに自分のコップにも注いだ。
「なんだ、情けない奴だ、女房に浮気されたって?」
「彼女は否定しているんですが・・それに確たる証拠もないんですが、限りなく黒に近い灰色状態だと思っています」
「じゃあ、相手もはっきりしていないのか?」
「いえ、大体は分かっています。前の会社で一緒だった男だと思うんです」
「奥さんがそう言ったのか?」
「ええ、言ったも同然です」
「・・それでいつから別居状態なんだ?」
「もう一月余りになりますか・・」
「どうして早く言わないんだ。まあ、別に声を大にして言いふらすことでもないが。だがな、君から見れば頼りがいのない上司かもしれないが、辞表なんか出す前に一言相談があってしかるべきだぞ」
「・・・」
「それで奥さんから別居を言い出したのか?」
「いえ、最初は別れたいと言ったんですけど、僕がうんと言わないもので・・ある日いなくなって・・」
「だけど、そんな奴がいるんなら、何でそいつと一緒にならなかったんだ?」
「僕もそう思うんですけど、彼女はそいつとは関係ないと言うんです。でもそいつが僕の留守中に出入りしているのを近所の人が見ているんです」
「それじゃあ、奥さんの言う、別れる理由は?」
「はっきりした理由を言わないから、僕もはい、そうですかとは言えないんです」
「ふーん、好い奥さんだと思ったがなあ。美人だし、出しゃばらないし、羨ましいくらいだったがなあ。まあ、君もまだ若いんだから、これからいくらでもいい女が出て来るよ」
「でも僕は別れたくないんです」
「未練があるのか?」
 浩三は黙って頷いた。小川は煙草を吸い込むと一度天井を見上げた。
「まあ、夫婦のことは外からじゃ分からんからな。しかし別れて一から出直すのも選択肢の一つだぞ」
「でも何一つ不満も言わないし、喧嘩もしたこともないし、だから納得がいかないんです」
「その喧嘩もしないというのは、曲者なんだ。よし、分かった。俺が一度奥さんと話してみよう。連絡はつくんだな?」
「ええ、住所は分かっています」
「しかし、どうして会社を辞めなきゃならんのだ?それとこれとは全く別のものだろう?別居や離婚をする奴が皆辞めて行ったら堪ったものじゃない」
「・・・」
「今の若い奴は何かというと、すぐに辞めると言うが、男に取って仕事はそんなに軽いものじゃないだろう。お前みたいなものでも、この会社で多少なりと実績を作ってきたんだ。それをあっさり捨てるのは愚の骨頂だ。考える時間が欲しいのなら、一ヶ月くらい病欠扱いにしてやっても好い」
「すみません。ご心配をお掛けしまして」
 小川は突然手を叩いて、
「オーイ、こっち、こっちビール」
 浩三は小川の声の大きさにびっくりして頭を上げた。法被の青年が急いでやって来た。
「ビールの追加、それとおでん、後は串カツに焼きおにぎり」そう言うと、小川は青年の尻を追いかけるようにトイレに立った。
 浩三は煙草を一服吸い込み、周囲を見回した。隣の席では、女子社員と思われる三人が、盆休みの旅行の話に夢中になっている。ビールや酎ハイが人数の倍ほど並んでいる。浩三はこの三人を見て、とても自分の手には負えないと思った。
 小川は戻ってくると、使用済みのお絞りで、再び顔を万遍なく拭いた。
「なんの話だったかなあ。そうだ、自分を見つめ直すとか何とか言ってたな」
と言って、煙草に火を点けた。小川は半分ほど喫っては捨てるので、灰皿はもう一杯になっていた。
「お前、自分に責任があると思っているのか?」
「ええ、余り構ってやれなかったですから・・」
「それを言われると、こっちにも辛いところがあるな。新婚早々のお前に少し無理をさせたからなあ。しかしあれくらいで音を上げるようでは企業の女房は務まらない」
 青年が追加の品をテーブルに並べた。浩三は先手を打って、ビールを受け取ると小川に注いだ。
「戦後強くなったのは、女と靴下だとよく言うが、昔は三行半というのは男の専売特許だったんだ。でも結局は昔の女ってのは利口だったんだ。待てば海路の日和ありって、辛抱していれば最後の勝利者になれるって分かっていたんだな。しかし今の女は船出した途端、気に入らないことがあればすぐに引き返そうとする。ウーマン・リブとか言って、結婚制度は女の自由な生き方を阻害するって言う女史まで登場するご時世だ。だけど我々が自然発生したものでなく、親から生まれてきたという事実において、すでにもう自由じゃないんだ。知らないうちに色んな束縛のおまけをつけて生まれ出ているんだ。そういう人間がだよ、生きていく上に於いて、何でもかでも自由を求めると、そこに軋轢が生じるのは当然じゃないか。我々は所詮何かの束縛なしでは生きて行けないんだよ」
「でも僕は浮気程度の自由なら、認めても好いとさえ思っているんです。ですから、何があったにせよ、水に流すって言ったんですが・・」
「お前、本当に愛しているんだなあ、奥さんを」
「あいつが出て行ったとき、もう二度と戻ってこないんじゃないかと思いました。そう思うと、目の前が真っ暗になって、いっそ死んでやろうかって思いました」
「人間、死なんてものはわざわざ手を伸ばさなくても、あっちからやって来るもんだ。生きていてもつまらんって言う奴もいるが、途中下車したってつまらんじゃないか。それなら、残りの人生何が起きるか期待するのも一興じゃないか。君なんかまだ若いんだから、この先色んな出会いがある。一つのことに拘って自分を動けなくしてしまうのはそれこそつまらん話だ。大体、七、八十年生きればいやでも死ぬんだ。だがな、考えようによっては、寿命があるから生きてられるんだ。七、八十年で終わると思うから、苦しいことも辛いことも辛抱できるし、その間に精一杯楽しい思い出や、面白い目を見ようと頑張れるんだ。これが永久に続いてみろよ、意欲も半減するよ。ホラ、夜店なんかで二十日鼠が一所懸命円い回転梯子を回り続けているだろう。あれだよ、あれ。希望も何もありゃしない。俺なんか、これから女房と二人で、何百年、何千年も生きるなんて考えただけでもぞっとするね。それこそ死にたくなる」
 小川の話は訳の分からないものになってきた。だが、浩三は久子と二人なら、二十日鼠になって永遠に梯子を回し続けても好いと思った。