しかしすべて仮相ですむのなら、初手から生まれてこなければ好い。浩三には宗教は生まれてからの処方箋を述べたものであり、生まれる必要性を説いたものは少ないように思えた。
キリスト教も仏教も、来世の至福の為にこの世で奉仕を、徳をつめという。また宇宙の一切のものは網の目のように繋がっていて、己だけ救われても本当の救いにはならないという。つまり、己が救われるためには他者も救えと言う。これは自己益を目論む打算以外の何物でもない。他者を巻き込むのは布教の常套手段である。そこから勧誘、寄進、供養という堕落が始まる。神が何故供養を求める。報いを求めるのは人のレベルである。慈悲により衆生を救うというのはキリスト教の贖罪と同じである。迷っても、負けても、仏に成れなくともよい、たとえ或る朝、突然虫に変身しても、何も言わずに見守ってやるのが親の心ではないか。なにゆえ菩提心を求める。なにゆえ涅槃寂静を強要する。人生の目的とか、到達すべき処とか、そういったことを探求しない境地こそが悟りではないか。幸せが心の満足なら、それは仏に成らずとも、路傍の一輪の花で間に合うものだ。仮にすべての人が楽園に入れたとしよう。そこで人は永遠に飽くことのない満足を覚えて暮らせるのだろうか。実際、浄土に行けばどんな好いことがあるのだろうか?そこに行けばいつでも性交のようなオルガスムスが得られるのだろうか?極論すれば、生存している満足感を与えるのはオルガスムスしかない。その他の理由付けはホモサピエンスの見栄にすぎない。そしてそれを生殖と結び付けていることに神の企みが感じられる。しかしそれは生殖作業にそれだけのお駄賃を与えなければならないほど、人は神、いやDNAに信用されていないということか。或いはチンパンジーやライオンに与えれば寝食を忘れて没頭するかも知れないが、人は理性でコントロールできる証なのだろうか。
いずれにしても、たとえ毎日オルガスムス的生活が得られたとしても、それが永遠に生を続ける原動力になるかは疑問だ。そして神は永遠の生など望んではいないのだ。天国を夢見るのは、後ろ姿の美しい女に憧れるようなものだ。
だが問題は地獄か極楽かではない。我々は、というより生物は太古から自らの生を拒まずに生きてきたのだ。それがたとえ地獄の真っ只中であっても、例えばシジフォスでも、あの無意味な労役の中に「今度は前より上手くいった」というような楽しみを見いだして生きていけるのである。人は幸せを求める。だがそこにどれほどの価値が在ろう。懸命に青い鳥を追い求め、幸運にそれが見つかれば、一瞬その探し得た幸福感に満たされよう。しかしそれを手にした次の瞬間には、もうその青は色あせて見え、新たなる青い鳥を追い求めたくなるものだ。
僕たちは生きるために食べる。何故生きる義務を背負わされているのか。子供を作るためである。この机上の設計図を無味乾燥に思ったのか、それともちょっとした悪戯心からか、或いは舞台の下で見るのに面白いようにか、神様は人の生に出世欲、名誉欲、恋愛感情といったスパイスを加味した。そこから悲喜こもごものドラマが生まれる。その舞台上で踊らされる者には喜々として演じる者もいれば、悩み、苦しみ、振り回されて舞台から転落する者もいる。しかしこういう遺伝情報が続いているということは、人という種の存続には有効なのだろう。僕たちに生を拒む権利は賦与されてはいない。梨園に生まれた子供のように否応なしに舞台に上らされるのだ。そして何らかの役を演じなければならない。自分に宿った遺伝子を信じて。
人生は生きるに値しないと言おう。それは束の間の夢に過ぎない。また生きるに値する生が存在するとも思えない。ならば「死」はそれ以上のものとして、この生きるに値しない生を償ってくれるものだろうか。
「絶望は事実ではなく、一つの状態に過ぎない」と何処かの哲学者が言ったという。しかし浩三には愛した女が、自分ではなく他の男を愛しているという事実はどうでも好かった。問題は久子という愛する対象物がいないという今の状態なのだ。死は厳然たる事実である。だが不安なのは死ではなく、生という状態が不安なのだ。死に至る道、死という解放を得るために苦しみの代償がいるのだ。死は不安な生を生き抜いたご褒美に過ぎない。
芥川は漠然たる将来の不安の為に死を選んだ。しかし不安だったのは、将来ではなく現存する只今の状態が不安だったからに違いない。人間にとって、将来を鑑みるというのは口実に過ぎない。今こそ問題であり今しか関心が持てないのだ。たとえ将来の為の備えであっても、それは今の安心が得られるからだ。
鈴木大拙はこう言っていた。
「もし愛するところありて、これに会うことを得ず、あるいはこれと離れざるを得ず、これが為に我が胸大いに病むというか、即ちその痛み起こる処いずれぞ、病むもの何ぞ、と尋ぬべし。尋ねて必ずその極に至らんことを期せよ。自ら眼有り、意識有り、判断有り、覚知力有る以上は、これを利用してひとたび実物を手にせんと心掛くる」
浩三はもう一度何としても実物を手にしたかった。そしてそれを永遠のものにしたいと思った。